忘却と昭和時代(6/6)※長編記事

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お屠蘇気分もとっくの昔に醒めたところで、
もういい加減にこのシリーズを片付けるべく、
飲み疲れの体にむち打って、もうひと踏ん張りです。(笑)

コロナ云々以前に、この日本社会はあらゆる面で、
質・量ともに本格的な後退局面に入ったことは
間違いないのではないかと考えています。
そして、このような状況を目の当たりにして、
「昔が懐かしいな、昔に戻りたいなあ・・・。」とか、
「せめて自分が生きながらえている間だけでも
良い想いがしたいな。そのためなら他人は
犠牲にしてもしょうがないよね。」といった
後ろ向きな考え方が蔓延しているのではないでしょうか。

ここら辺で一回、頭の中をきちんと整理して
現実と対峙していく態勢を作らないと、
美空ひばりではないですが、
たゆたう川の流れに身を任せていたら、
思ってもみなかった場所に流れ着いて
気付いたら手遅れなんて事になりかねません。

常日頃思うことですが、先の大戦というのは、
粗暴かつ強欲で好戦的な人々「だけ」が起こしたわけではなく、
何となくその場の空気に合わせて、
おかしいと思った事に「おかしい」と声を上げなかった人たち、
それに「おかしい」と異を唱える人を
「非国民」として糾弾・排除した人たちも
結果的には同罪であると考えています。

例えば横断歩道を渡るとき、スマホから片時も目を離すことなく
信号機を見ることもなく周りのひとの流れに合わせているひと。
あるいは、ネットニュースで議論が白熱しているとき、
本当は自分の意見もないのに何となく帳尻を合わせて
大勢を占めるほうに加担して攻撃しているひと・・・。
大丈夫でしょうか。
きちんと自分の頭で「善悪」を判断していますか?
歌手の美輪明宏さんも今般の状況は
「戦時中と似ている。」と事あるごとに指摘されています。
私は、上記のような人たちが、今回のコロナ危機もそうですが、
予期せぬ事態に直面したときにパニックを起こして
戦争を始めてしまうのではないかと本気で心配しています。

この国が再び焦土と化して、塗炭の苦しみを味わうばかりか、
戦犯国家として十字架を背負うようなことがないよう、
坂道を転げ落ちるのではなく踏みとどまりながら、
一歩一歩着実に「降りていく」ための「知恵」
みんなで出し合っていければ・・・。
ここでは現時点で私の考えた「知恵」を披露していきます。

と、さんざん勿体ぶっておきながら何ですが、
今日はさほど目新しい話はしません。
というか、頭が悪いので出来ません。(苦笑)
去年の春に書いた「やすらぎの刻~道」の考察シリーズに
尾ひれを付けて味付けを変えて調理していく感じです。
(相変わらず前置きが長いのぉ・・・。)


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過剰に美化された「過去への憧憬」とどう向き合えばよいのか?
その答えは、
「絶対的視点」から「相対的視点」へ
と思考回路をシフトさせることと考えます。

海外に出たことがないので全くの想像ですが、
私達日本人は「相対的」な思考に慣れていないのだと思います。
とかく島国である日本に住んでいると、
自分の国を「唯一絶対の存在」として捉えることに
何の疑念も持たないようになるのではないでしょうか。
同時に他国で起きていることはどこか他人事というか、
とても遠くリアリティの薄いものに感じられます。
これは紛れもなく他国との間に「海」を隔てていることに
起因していると言ってよいでしょう。

大陸のなかで発展してきた国々では全く様相が異なります。
他国と地続きに接していることでアクセスが容易であるため、
「モノ・ヒト・カネ」の交流が活発になり、
さまざまな影響を相互に与えあっていることでしょう。
「シルクロード」などは、その盛んな交易の賜物ですよね。
もちろん良い事ばかりではないはずです。
文化・風習・価値観の異なるものどうしが擦(こす)れ合えば、
そこに何らかの葛藤や軋轢が生まれ、
やがては戦争に発展していくのは世の常でしょう。
ましてや隣国が経済的・軍事的に大国であれば、
いつ何時攻め込まれて蹂躙(じゅうりん)されてしまうか分かりません。
実際に多くの国が膨張と収縮を繰り返し、
幾つかの国や文明は滅亡していきました。

このように他国の「脅威」と常に身近に接している人々は、
「国境」などというものは、とても移ろいやすく、
相対的で不確かなものであるという感覚を
日常生活のシーンを通して無意識的に身につけていて、
危険や不確定要素と隣り合わせの環境で生きることに
うまく適応してきたのではないかと推測できます。

他国による支配あるいは介入を受けたことのある国の人々は、
概して鷹揚(おうよう=おおらかな様子)かつ楽観的で、
それでいて逆境に折れない強(したた)かさや
上手く立ち回る術(すべ)を持っているように感じられます。
ブラジル・アイルランド・インドネシアなど、
個人的感覚ですが何となくそんなイメージを
持っていますが如何でしょう?

小さくて弱い国が、隣国に侵略されないために何をするか?
例えば使節団を派遣して貢ぎ物を届けたり、
要人を招いて豪華な宴席でもてなすなどして、
(それが表向きのものだとしても)
敵意が無く友好的な関係を演出して内外にアピールしておけば、
相手とすれば言わば「楔(くさび)」を打ち込まれて、
簡単には攻めづらくなります。
また、「敵の敵は味方なり」の考え方で、
その隣国と敵対する勢力と手を結んでおけば、
相手に報復攻撃の大義名分を与えることのないよう、
軽率に手出しすることは控えるはずです。

仮に支配されたとしても、
「命まで取られるわけじゃないから。」
「いつかは終わるからその時まで待とう。」
「まあ僕たちだけじゃないからね。」
「服従したフリをしていればいいんだろう?」
常に「関係性」のなかで生きている彼等にとっては、
この世で起きる出来事はほとんどが相対的であり、
「絶対」や「永遠」のものなど無いに等しいのだと
割り切ることが出来るのかもしれません。

一方わが国では、尖閣諸島や竹島の問題で揉め事がある度に、
「日本政府は弱腰なのではないか?」
「中韓のくせに生意気だ!けしからん!」
という怒りの声が挙がり、
「中国マジ最悪!全員死ねばいいのに!」
とレイシズムに走ってしまったり、
「だから日本は駄目なんだ!」
という自己批判にも似た見解に帰結してしまいがちです。
ただ、東アジアの地図を広げてみても、
尖閣にしろ竹島にしろとても微妙な位置関係です。
双方に言い分があり、どちらか一方に決めるのは難しそうです。
ゼロか百か、丁か半か、勧善懲悪の水戸黄門よろしく、
何でも白黒付けてスッキリサッパリしたがるのは、
私達が相対的思考に慣れていない証左なのではないでしょうか。

現在の香港で起きている政治的混乱は、
小さな島国である日本にとっても決して対岸の火事ではなく、
自分事として不測の事態に備えなければなりません。
物事を相対視することで「脅威」を克服していくさまは、
実に大きなインプットを与えてくれる考え方ではありませんか。

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では、「絶対史観」から脱却して「相対的視点」を得るために、
もう少し具体的に何をしたらよいでしょうか。
ここでは次に述べる2つの感覚から
自由になることを提案したいと思います。

① 今の世の中は自分たちの力で成し遂げたものだという感覚
② こうでなければならないという感覚

上記に挙げた2つの感覚について、
こんな場面を思い浮かべてみてください。
あるスポーツ選手が、オリンピックで金メダルを獲得しました。
今まで誰も成し遂げることが出来なかった歴史的偉業です。
彼は今後、誰もがうらやむような名声と地位、
それに多額の報酬を手にすることでしょう。
そしてヒーローインタビューで歓喜の涙を流しながらこう語るのです。
「今まで支えてくれた家族やスタッフ、ファンのおかげです!」
いわゆる常套句ですよね。
マスメディア向けのリップサービスの側面もあると思いますが、
自分の力「だけ」で成し遂げたわけではないんだぞ、という
「戒め」の言葉として自身に向けているように見受けられます。
ちょっと意地悪な見方かもしれませんが、裏を返せば、
①に示した「自分の力で成し遂げた」感覚があるということですよね?
10%なのか50%なのか、あるいは80%なのか分かりませんけど、
いずれにせよ100%ではなく「相対的」なものですから、
「アイツ調子こいてるな、ムカつく!」などと言われて
ツイッターが炎上するようなことは無さそうですね。(笑)

また、最近のスポーツ選手の言動でよく聞く言葉に、
「優勝以外は全て負け。1回戦敗退も準優勝も同じ。」があります。
オール・オア・ナッシングの極端な考え方のようにも聞こえますが、
こうやって目標を高く設定することで、
日々の練習に打ち込むためのモチベーションを
維持しようとしているのではないかとも解釈できます。
もし本来の力を発揮できずに初戦敗退したとしても、
優勝以外は全て負け、と考えれば
「勝たなければならない、優勝しなければ意味が無い!」ではなく、
「みんないつかは負けて終わるんだから、一緒だよね。」
というようにプレッシャーを軽減する効果も期待できます。
一見、②に挙げた「絶対視」しているように聞こえて、
実は冷静沈着に「相対視」しているんですね。

スポーツというものは、テレビで観ているぶんには
爽やかで楽しいものですが、野球ひとつ取ってみても
結構裏では泥臭いことをやってますし、
プレーヤー目線では印象がかなり違うみたいです。
現役時代に捕手だった野村克也さんは、
相手バッターに向けて色々な言葉をささやいて、
本来の打撃をさせないように配慮していたのは有名な話です。
また関西の某球場では、ビジターの選手を挑発するために
えげつないヤジがどんどん飛び交っていて、
メンタルの弱い投手などはすぐに制球を乱してしまいそうです。
相手の嫌がることをする、リズムを崩して力を発揮させない、
「心技体」のうちの「心」の部分のせめぎ合いは、
競技のちがいはあっても、おそらく共通なのでしょう。
己のポテンシャルを遺憾なく発揮すべく、
事象を相対的に捉える訓練を意識的に、あるいは無意識的に
常日頃から行っているのではないでしょうか。

今の世の中は「自分たちの力で成し遂げたものだ」という感覚、
そして、「こうでなければならない」という感覚は、
人間であれば必ず持っているものと思われます。
金メダルを獲った例のスポーツ選手が、
「皆さんのおかげです!」と言ったからといって、
手にした報酬を1円たりとも残さずに
周囲の人々に配ったりするでしょうか?しませんよね。
程度の差こそあれ、「自分の力で獲ったんだ」と思うから
自分の懐に収めるわけです。当然のことです。
重要なことは、100%ではないこと、
すなわち「相対的」であることを
本人が認識していることと私は考えます。

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ところで、皆さんは「バイアス」という言葉を
一度は耳にしたことがあると思います。
和訳すると「偏圧」と表現できるのではないかと考えられます。
これは、ある事象について
何らかの意図を以て「手心」を加えて歪めることで、
誤った認識をすることを表す言葉です。
東北の大震災のときに、大津波が迫っていることを認識しながら、
不安や恐怖、煩わしさなどの自分にとって不都合な事実を無視して、
避難をためらったために多くの方々が犠牲になりました。
この「不都合な事実を無視させたもの(=圧力)」
「正常性バイアス」として世間に広く知れ渡りました。

ここで、先に述べた「自分たちの力で成し遂げたものだ」と
「こうでなければならない」という2つの感覚のことを、
「現状肯定バイアス」と定義したいと思います。
私は心理学に関してまったくの門外漢ですし、
実際にはこんな言葉は無いと思うのですが、
まあ「正常性バイアス」の一種と捉えてください。

どういう事かというと、自分がいま置かれている状況について、
望みどおりの結果が得られていればいるほど、
恵まれた境遇に置かれていればいるほど、
「これは自分自身の実力でつかんだものなんだ!」
「私はこの地位にいなければならない人物なんだ!」と、
その「現状を肯定したい衝動」に駆られる「圧(バイアス)」が
強くなるのではないかと考えられます。
それはちょうど「バネ」が伸びれば伸びるほど
その変位に比例して反発力が強くなるように、
儲かれば儲かるほど、出世すれば出世するほど、
「これでいいんだ!」
「ずっとこのままでいたい!」
という感覚がどんどん増幅していき、
やがてそれが極限つまり100%まで達すると、
「自分は世界で最も偉大な人物なのだ!」という絶対史観に囚われて、
傲慢かつ尊大な振る舞いで世間から顰蹙(ひんしゅく)を買うのです。
要は、ネットスラングで言うところの
「偉くなるほどバカになる。」ってヤツです。

つい先頃も、こういう御仁がいらっしゃいましたよね。
あの人・・・名前なんて言いましたっけ?
ほら、あの・・・プリンセス天功ばりのトリックで、
箱の中に隠れて海外逃亡した人が居ましたよね?
除夜の鐘がゴーン!と鳴り響く夜に!
ぎゃははははは!!(大笑)

ま、冗談はさておき、
このように「現状肯定バイアス」の虜(とりこ)となった人が、
1人か2人くらいで単独で存在しているならば、
「しょうも無い奴だなあ。」と相手にしなければいいだけですが、
厄介なのは、この手の連中がお互いに手を組んで「共同体」を作り、
自分たちの利益を最大化させるために、
なおかつその仕組みを恒常化するために組織的に活動することです。
これは社会全体に影響を及ぼすうえ、
私たち一般市民は逃げることも抗うことも
難しいのではないでしょうか。
何故なら、彼ら「現状肯定バイアス共同体」の住人たちは、
「成功者」であり政治・経済の権力中枢に
非常に近いポジションに居るか、
もしくは権力者そのものだからです。
「マイク」は彼らが持っているので、
彼らがマスメディアを通してまことしやかに語る
「自分たちにとって都合のいいストーリー」
そのまま「真実」として独り歩きを始めてしまうのです。

裸の王様たちによる「共同体」の最たるものとして、
東北大震災による原発事故のときに批判が殺到した
「原子力ムラ」があります。
巨大津波の危険性が指摘されていたにも関わらず、
「これでいいんだ!」と有効な対策を施さず、
まさに「バイアス」の本質である
「自分たちにとって不都合な情報や事実を無視」した結果が、
あのフクシマの惨状です。

このように「現状肯定バイアス」に支配され、
いまの自分が置かれた境遇は、
すべて自分自身の実力でつかんだものだと信じて疑わず、
夢見心地で悦に入っている人たちのことを
「夢から醒めない人たち」と呼ぶことにしましょう。

一番大事なことを言います。
いまの日本社会を覆っているさまざまな問題の核心部、
大本の大本は彼ら「夢から醒めない人たち」の言行に
あるのではないかと私は洞察しています。
彼らに見えている風景、そして展望はこんな感じではないでしょうか。
「戦争に負けたのは悔しかったけど、そのあと俺たちはめざましい経済発展を成し遂げて世界の覇権を獲ったと言ってもいいぐらいだよな。敗戦の悔しさはしっかりと晴らしてやったぜ。それにひきかえ、最近の若い奴らは根性なしで情けないな。お先真っ暗じゃないか。まあ、どっちみち俺たちが造った『経済大国・日本』だからな。壊すのも俺たちの自由なんじゃないかな。これからの若いもんは苦しむかもしれないけど、しょうがないだろう?もうしばらく、せめて俺の目の黒いうちは今までどおり優雅な余生を楽しませてもらうよ。」

この「現状肯定バイアス共同体」の構成員の大半は、
高齢者で占められていることは容易に想像がつきますが、
ご自身の目に入れても痛くないであろう、かわいいお孫さんたちに
豊かで希望の持てる社会を残してから旅立とうという
気概や矜持は微塵も感じられません。
最大の誤謬(ごびゅう)は、自分達がこの国を造ったんだとして
その功績を「絶対視」「特別視」してしまっていることです。

「そろそろ目を覚ましてもらっていいですか?」

中学校の歴史の授業で覚えた知識をもとに話します。
終戦のあと4~5年経った頃に朝鮮戦争が始まりましたよね?
その後もイデオロギーの対立に伴う東西冷戦構造を背景にして、
中東、ベトナムなど世界各地で戦乱が巻き起こりました。
戦争による特需で、戦後の日本経済は急激に回復軌道に乗った、と。
細かい認識の違いはあるかもしれませんが、
国外で起きていた色々な出来事が複合的に絡み合って、
強大な軍事力と経済力を持ち合わせたアメリカ合衆国の「核の傘」の下、
紆余曲折はあったにせよ多大な恩恵を受けたことは
間違いないのではないでしょうか。
授業を聞いていた私は、こんな想いを巡らせていました。
「なんだ、バブルだ何だって浮かれているけれど、
結局元をたどれば『他力本願』なんじゃん。
世界に冠たる経済大国なんて威張っているけれど、
ほんとは日本って、単体では大したことないのかなあ・・・。」
こうやって振り返ってみると、偶発的要因がとても強いというか、
たまたまそういう「風」が吹いていたという見方は出来ませんか。

先日も書きましたが、団塊の世代を中心とする
戦後日本の礎(いしずえ)を築かれた皆さんを
罵倒したり侮辱する意図は全くありません。
焼け野原の憔悴と混乱のなかで路頭に迷い、
今日明日食べるものにも不自由する環境のなかで、
汗と泥にまみれて必死に働いてくれたからこそ、
私たち現役世代は生まれながらにして何不自由することなく
豊かな生活を送ることが出来ているのです。
心から感謝し尊敬しています。

ただ、ごくごく一部の「現状肯定バイアス帝国」の領主たちが、
自らの成功体験の余韻に浸りながら、
優雅に人生を終えたいという気持ちに固執して、
自分たちだけに好都合な理論で武装した
巨大なる「要塞」のなかに立て籠もっているから、
現在のような苦境と停滞がもたらされ
多くの人々が苛まれているのです。
頑迷で愚鈍な彼らをこの要塞から解放するべく、
夢見心地の誘惑から覚醒させるべく、
重く固く閉ざされた鋼鉄の牢門の外から、
目を覚ましたみんなで大きな声を上げましょう。
そう、ちょうどトンネルの向こう側から
呼び掛けていた三平兄さん(※)のように。

「ウェイク・アップ・マン!!(目を覚ませ)」
「ア・ドリーム・イズ・オーバー!!
(夢は終わったんだよ)」

※・・・リンク記事参照「ぜんぶ夢だったんだよ」
(2020年5月10日投稿)

唐突ですが、玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんを
ご存知でしょうか?今まで私も存じ上げなかったのですが、
福島県にあるお寺の住職の傍ら、多数の著作をお持ちの作家さんです。
つい先日、地元のテレビ局の番組に出演され、
仏教に関するお話しをされていたのを
ネット記事で読む機会がありました。

「諦(あきら)める」という言葉がありますが、
もともとは仏教用語で「明らかにする」という意味だそうです。
へぇー、そうだったんだ!と膝を打ちました。
(以下、一部抜粋します。)
「以前に立てていた目標に、こだわる人が多いじゃないですか。でも状況が刻一刻と変わっていますから、このままやっていいのかマズイのか、まずそれを明らかにして、無理なことについては大胆に諦めないといけないんじゃないかなという気がします。」

元記事:
【あきらめよう】玄侑宗久さん(芥川賞作家・住職)コロナ禍をどう生きる
? 明らかにし大胆に決断を(福島テレビ)

もう、「なにをか況(いわ)んや」ですよね。
太平洋戦争も、今回のオリンピックも全部これ。
1回振り上げた拳を、下ろすことをためらう習性がありますね。
竹槍でB29を撃つ!とブチ挙げてはみたものの、
サムライのプライドが邪魔して1億玉砕となったのが
つい75年ほど前のこと・・・。
そういえば1年前のダイヤモンド・プリンセス号の外国人乗客も
厚労省の後手後手ぶりを嘆いていたっけ。
「彼らは一度決めると最後まで行ってしまう。
途中で軌道修正をしない。間違いを反省しない。」と。
かくいう自分も、日頃の業務のなかで方針の変更を促されると、
「せっかく頑張って造ったのに、またやり直しかよ!」
とか言って、つい愚痴ってしまいます。
意固地でシフトチェンジが苦手なDNAを
見事に受け継いでしまってますね。
これは大いに反省しなければなりません。(汗)

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ここまで、「現状肯定バイアス」という造語を使って、
「過去への憧憬」がもたらす呪縛とその弊害を説明してきました。
「仏教」に関して、工業大学出身の私が持っている
わずかばかりの知識を動員すると、
「バイアス」と表現してきた「こうでなければならない」感覚は、
仏教で言うところの「執着」と考えることができそうです。
そしてこの「執着」から離れること、解放されることによって
人は「極楽浄土」を体感することが出来ると説いています。
また、この世を支配しているのは
「縁(えん)」であるとも言われています。
この広い地球上でアジアの小さな島国に生を受けたこと、
今後の人類の興亡を占う分岐点となる時代に生きていること、
それもひとえに物理的、時系列的にピンポイント
数奇な巡り合わせなのだ、と。
何だか鉄道写真にも似ていますよね。
このアングルで、この瞬間しかない!みたいな。

仏教の教えに触れて感じる事は、
「絶対視」から「相対視」へと舵(かじ)を切ることで、
救いや安らぎを得ることができるという
これまで考察を重ねてきた「知恵」が、
仏教をはじめとして人類が脈々と紡いできた「叡智」によって
証明されるということなのではないでしょうか。

今般のコロナ・パンデミックで、
私もいろいろと考えさせられた事が多かったですが、
もう「あの時代」をベンチマーク(基準点)にして、
眉間にシワを寄せて世の中を語るのは
いい加減やめにしようかと思います。
「あの時代」とは、高度経済成長期やバブル経済の
イケイケムードを謳歌したひと頃を指す人も居れば、
個人的に人生を振り返ったときの
「輝いていたグロリアス・デイズ」を指す人もいるでしょう。
自分にとっては、ひたすら鉄道撮影に没頭して
クリエイティブに闘い続けた数年間だったと言えます。
でも、光陰矢のごとし。もう二度と戻っては来ないんです。
「あきらめましょう!」
世間には、「こうしなければならない」とか
「こうでなければならない」ということは、
私たちが考えているほど多くないのだと推測しています。

ですから、コンビニで弁当買ったら箸が付いてなかったとか、
何でアイツはろくに仕事しないで出世しているんだとか、
いちいちイラついたりせずに・・・
まあ、時々はすると思いますけど、
全ては「縁」の成せる業だからと笑ってやり過ごして、
「執着」や「煩悩」からしっかりと
ソーシャル・ディスタンスを確保しながら、
松岡修造さんには怒られてしまうかもしれませんが、(笑)
積極的に「諦める」ことを念頭に置いて
今後の人生を歩んでいこうかと思っております。

以上、クッソ長い駄文にお付き合いいただき
ありがとうございました。

(完)