解離

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3週連続で雨降りの日曜日です。
先週あたりから業務が急に暇になってしまい、
ネット記事を見ていたら色々と思うところがあったので、
暇つぶしを兼ねてまたひとつ考察してみましょうか。

表題に「解離(かいり)」と書きました。
一般的には、例えば理想と現実がかけ離れているときなどに
乖離(かいり)している。」と表現することがありますが、
こちらは心理学用語の「解離」です。

解離とは、アイデンティティ(自己同一性)が
一時的に喪失されることによる様々な障害を指します。
例えば、とても退屈な授業や会議をしているときに、
ぼーっと瞑想にふけっていてふと我に返り、
「あれっ?どうして自分はいまここに居るのだろう?」
という感覚に陥ったことってありませんか?
私は何回も経験がありますね。
これは軽度の解離現象で健常者レベルでも起こりうるものです。
症状が重くなっていくと、多重人格障害や記憶喪失が
起きることもあるそうです。

で、何が言いたいのかというと、
コロナ・パンデミックに覆われてしまったこの世界で、
今までにも増して「解離」の様相を呈している人が
増殖しているのではないかということです。

ニュースの街頭インタビューで、
「空いていると思って来たのに、めっちゃ混んでいますね。」
などとおどけて話しているひとに対して、
「そういうお前も混雑を助長している一因なんだよ!」
とコメント欄にツッコミが入っている場面を
数え切れないほど目にしてきました。(笑)

ちょっと繁華街で羽目はずして騒ぎたくても、
旅行に行きたくても、ひたすら我慢!我慢!
普段は外出が億劫で、人混みが大嫌いな私でも
さすがにストレスが溜まってきました。
明日以降、私たちはどうなってしまうのか?

「解離」という現象は、強いストレスや不安、恐怖から
心身を守るための「防衛機制」と捉えられています。
「出かけたいのに出かけられない」
「未来が閉ざされてしまった」
この「耐えがたい苦痛」は、解離を起こすための原因に
十分なる得るのではないでしょうか。
不要不急の外出自粛が要請されているにも関わらず、
なんとなくお出かけしてしまったこの人たちも
「解離」を起こしていると考えることが出来ます。

ここからは私なりの解釈ですが、
今般のような困難に直面したとき、
「感染拡大を防ぐために協力しなくてはならない」という社会的問題と
「それでもお出かけしたいよね」という個人的欲求を
完全に切り離してしまっているのではないかと推測出来ます。
人間というのは、共同体のなかで生きる「社会性」の生き物であり、
同時に食欲・性欲などの「本能」が備わった動物でもあります。
外出自粛という社会性が、今は飲み会やお出かけという
本能的な欲求の妨げになっていますから、
それらを全部取っ払ってしまおうということです。
「社会的」な自分と「本能的」な自分とを切り離すことは
アイデンティティの喪失すなわち「解離」に
つながっているのではないかと考えられます。

「空いていると思って来たのに、めっちゃ混んでいますね。」
というコメントには、「公」「私」の密接な相関関係を
一切考慮に入れていない印象を強く感じることができます。
このように「公」の意識を矮小化(わいしょうか)して、
「私」のなかに閉じこもって自己欺瞞(ぎまん)を
繰り返す行為は、きっとコロナ以前から
ずっと連綿と続いてきたのでしょう。

一般庶民の政治・社会に無関心なさまを憂慮する声は
いつの時代も途絶えたことがないように、
今後も危機が訪れるたびに、同様の「解離」が起きるでしょう。
そして民主主義による変革は遅々として進まず、
「絵に描いた餅」のままの可能性が高いのではないでしょうか。
少なくとも私たち現役世代が生きているうちは。

何だか身も蓋もない話になってしまいましたが、
絶望と悲嘆に暮れる必要はないと思っています。
私達は、ファクト(客観的事実)を「変える」ことが
もし出来ないとしても、「知る」ことは出来ます。
感傷を排して歴史を知り、現状に鑑み、
そして未来を洞察すれば生き残る術は見つかるでしょう。


おやおや、もう日が暮れてしまいました。
今日はこれくらいにしておきます。(苦笑)

ちなみに、「解離」という言葉は、
心理学者の香山リカさんが書いた
「〈私〉の愛国心」という本で知りました。
難解な専門用語が少なく、わかりやすい本でした。
興味があったら読んでみてください。





春が猛ダッシュ

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ちょっと勘弁してほしいですねぇ。
桜はほぼ満開になりましたが、
同時にあちらこちらで木々が芽吹いてしまってます。
もはや駆け足どころか「猛ダッシュ」の春ですね。(汗)
まだ3月なのに・・・少しずつ楽しみたいんですけどね。
気分的にはもう大型連休が始まっているのかと
錯覚してしまいそうです。(苦笑)

そういうわけで、貼り付けた画像も
1箇月くらい先取りのネタになります。
洗濯も済んだし、懐かしいメロディでも聴いてまったり過ごします。
新緑のワインディングロードを流しながら、
こんな曲をよく聴いていましたね。
心が躍る麗(うるわ)しい季節がやってきます。

「譲れないものをひとつ 持つことが本当の自由さ♫」
「束縛されないことが 自由じゃない♪」
from “Guitar Kids Rhapsody”/ B'z






曲がり角

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雨降りでヒマヒマなので、開催中の高校野球でも
観ようかと思っていたら雨天順延だそうで。(嘆)

若い頃はけっこう熱心に見ていましたが、
旧態依然とした組織の体質が現代の価値基準に
キャッチアップ出来ていないところがあって、
最近は「興醒め」してしまうことが多いですね。
(ネットが騒ぎすぎという面を差し引いても)

で、昔から定期的に議論が巻き起こるのが、
「野球留学」の是非と「1校の格差」の問題です。
↓↓↓↓↓


やはり全国的に有名なチームですので、
ファンの多さもあってか擁護する意見がほとんどのようです。

「それって桐蔭だけじゃないですよね?」
「自由に行きたいところに行けばいいやん」
「子供たちの意思が尊重されるべきだ」

うーん・・・私は小倉さんの仰るように
何らかの規制は必要だと思いますけどねえ。
監督さんの人柄が・練習環境が恵まれているから・
プロを目指しているから・・・
表向きもっともらしい理由が並べ立てられていますが、
結局のところ甲子園に出られる確率
高いところを探っているだけなのでは?

多くの擁護派の方々のコメントのように
本当の意味で「自由闊達」が良いと言うのならば、
いっそのこと都道府県ごとのブロック割りをやめて
完全に人口比率で均等になるように
出場枠を割りふればいいのかな、と。
ほとんどが大都市圏のチームになってしまいますし、
出場校が少ないエリアに行って、
3~4回勝てば甲子園に行ける「うまみ」は無くなりますけど、
それで本当にいいのでしょうかね?

もともと人口の少ない過疎地域でも
チャンスが与えられるように、という配慮で
都道府県ごとに出場枠が設けられていると
思うのですが・・・知らんけど。(大阪風、笑)
その「不公平」を敢えて是認している「土台」のうえで、
いくら自由に公平にと言っても意味が無いのでは?
その「うまみ」を逆手に取って、
自分だけ抜け駆けしようという人が出てくるから
「俺も!」「俺も!」となって
秩序も何も無くなってしまった訳でしょ?

とにかく野球ファンをはじめとする日本社会の側が
甲子園経験者を特別なステータスとして過大評価しすぎるし、
新聞社やテレビ局も我が社の収益拡大につなげようと
「甲子園いいぞ!いいぞ!」キャンペーンに躍起になるし、
高野連は相変わらず古き良き「昭和」時代に固執して
事なかれ主義の殻の中に閉じこもっているので、
私のように愛想を尽かして
野球ファンを辞めかけている人も増えるだろうし、
これからの野球界を担うであろう少年達も
だんだんと疎遠になっていくのではないでしょうか。

このあまりにも巨大な「利益共同体」を壊して再編成しなければ、
今後は世界大会どころかアジアでも勝ち抜くことは難しいかもですね。
現に韓国や台湾には負け続けてますよね?
かつての「栄光の日々」を特別視・絶対視して
島国のなかでだけガラパゴス的に盛り上がればそれで良し!
という選択をするというのであれば、
それはそれで良いとは思うのですが、
節操もなくあれもこれも、となれば
全部が駄目になっていくような気がしますけどねえ・・・。

兎にも角にも、マスタプラン(基本設計)
理念・哲学なんてものがあって無いようなモンですから、
成り下がっていくばかりですよね。
なんか悲観的な愚痴ばかりで申し訳ないですけど
事実は事実としてしっかり認識しないと
未来の展望は開けてこないのではないかと考えます。









感情移入という病

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今年の春は「なごり雪」の気配も皆無ですね~。
靖国神社のサクラがほころんでいるようです。
一方みちのくの春といえば、
まずは「ばっけ(ふきのとう)」が挙げられます。
菜の花なんかは4月や5月の花なんですね。

さて、今週はオリンピック絡みでゴタゴタがありました。
言いたいことはたくさんあるのですが、
なるべく散漫にならないように纏(まと)めようと思います。

現代は「共感の時代」である、と言われて久しいです。
インスタやユーチューブで日々の活動を報告し合い、
「いいね!」「尊い!」「それな!」をもらう数が
自分がイケているかどうかの評価軸になっていると
言っても過言ではないのではないでしょうか。

しかし、私が懸念するまでもなく、
既に様々なシーンでこの「共感第一主義」が
負の側面を露呈していることは間違いありません。
SNSに没頭しすぎて依存症になり、
公私ともども生活が崩壊してしまったり、
炎上を苦に自殺してしまう芸能人まで出てしまいました。

私が指摘したいのは、この「共感第一主義」によって
われわれ庶民は「感情移入」の病に
侵されているのではないかということです。
複数の媒体から渡辺直美さんのコメントが出ていますが、
「ブタ」呼ばわりされることに対しての批判というよりは、
この「騒動」そのものに対しての憂いが示されていると
解釈したのですが如何でしょうか?

容姿を侮辱されたことについて、
彼女が不快な気持ちを抱いたことは想像に難くありません。
しかし、それを彼女以外のひとが
たとえ善意や思いやりに起因するものであったとしても
「ありえない!許せない!辞任するべきだ!」
声高に叫ぶことは果たして「正義」なのでしょうか?
擁護するつもりが、実はとても傷つく場合もあるのでは?
それは直美さんの主観で判断することであり、
そのことが最も尊重されるべきなのではないでしょうか。

それにしても、「文春」ってそんなに偉いんですかね?
LINE上のオフレコ会議の内容をなぜ知っているのか、
そして、1年以上も前に情報を把握しながら
なぜこのタイミングで報道したのか?

まだまだ言い足りないことが色々とありますけど、
彼女も今回の騒動が一刻も早く収束することを
願っているようなので、このくらいにしておきます。

今日の晩酌は、ジム・ビームのコーラ割りで。
アテは何つくるかなぁ~♪・・・あら、地震だ!(汗)


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春の門出

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夜半から降っていた雨が昼過ぎに一旦上がり、
このまま天気回復か?と思いきや、
突如鉛色の雲が上空を覆い
鋭い雷鳴が「ドドーン!」と一発。
冬の日本海を彷彿とさせる暴風雨となりました。
今日は終日ステイホームになりそうです。

さて、今日からJR各線は新ダイヤですね。
今年は自分が関わってきた路線でも
大きな「節目」を迎えたようです。
当たり前のようにありふれた「日常の風景」の一部として
溶け込むようにして存在していた列車たちも
少しずつ新しいものに置き換わっていきます。

毎度おなじみ「葬式鉄」によるトラブルもあった模様ですが、
引退を迎える前にしっかりと記録しておくのが
由緒正しき鉄道ファンのスタイルではないかと。
今はPCの前で、在りし日の姿に想いをはせながら
静かにしみじみと「春の門出」を惜しみ、そして祝いましょう。

君の門出に乾杯!!




”あの日“のカーラジオ

あれから10年ですね。
長かったのか、はたまた短かったのか、
取り留めもなく歳月が流れていきました。
そして色々なことがありました。
まさか10年後にこんな状況になっているとは・・・。

震災当時、私は一つ目の会社を辞めて
東北地方のとある企業でトラック運転手として
働き始めたところでした。
実は、あの日割り当てられたトラックが
ラジオの壊れたオンボロ車だったのが運の尽き。
地震が起きたことを全く知らないまま高速道路を走っていました。
先月の震度6とは比にならないくらい揺れた「はず」なのですが。
インターを降りると街中にパトカーが出て、
信号の消えた交差点で交通整理にあたっていました。
「ん?何かあったのか?」
配送センターに到着してようやく事態の深刻さを
理解することが出来ました。

程なく高速道路が通行止めになったため、
小雪の舞う夕闇の中を、渋滞に巻き込まれながら
何とか会社に戻りました。
車庫にトラックを置いて、マイカーのラジオにありつけたのは、
もう夜の9時になろうとしていた頃だったと記憶しています。
被災した各地の惨状が洪水のように押し寄せるなか、
どうしても忘れられないシーンが頭を過(よ)ぎります。

NHKのアナウンサーが名取市閖上(ゆりあげ)地区の
津波被害を伝えるニュースの途中で、
あまりの悲惨さに絶句して泣き崩れてしまったのです。
テレビでも何度か見かけたことのある
ベテランの男性アナウンサーでした。
「本当に慎ましく生きている良い人達で・・・」
「何も悪いことをしていないのに、どうして・・・」
放送は中断されることもなく、ありのままに進行していきました。

地震発生の瞬間を体験しなかった自分としては、
どこか「置いてけぼり」にされたような、
歴史的な出来事に立ち会えなかった心残りがあります。
ユーチューブなどを見れば、様々な映像が見られますけど
なんか違うというか、自分事として考えられない感じがしています。

そんななかで、普段感情を乱すことの無いであろう
初老のアナウンサーが嗚咽(おえつ)を流した場面だけが、
唯一の「血の通った」生々しい記憶として
今でも私の胸に鮮明にインプットされています。


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三陸で撮った写真は、数えるほどしか無くて・・・。
たしか大槌の風変わりな橋梁の写真があったはずですが、
スキャンしないまま原版を廃棄した可能性が高いなぁ。
もったいないことをしましたね。(涙)
とりあえず、駅撮りのものを1枚。

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今日もがんばろうぜ(終)

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昨日の出勤途中、いつものように河川敷をウォッチしていたら、
横断幕が「今までありがとう!!」に変わっていました。
どうやら今週いっぱいで撤収する模様ですね。

物事には必ず「終わり」があります。
心のどこかで、この日が来ることは覚悟していました。
きっと週明けに閑散とした河原を目にしたとき、
ちょっぴりせつない「ロス」な気分を味わうことでしょう。

「マウンティング」なんていう言葉が
世間では定着してしまっていますが、
あれは本来「動物」の行動様式ですからね。
他人を貶(おとし)めて自分の優位を保ったり、
利益のためなら手段を選ばない姿勢が
古今東西を問わず横行しています。

それでも、自分以外のひとのために役立つ事をしたいという
「無私の精神」は確かに「人間」には宿っています。
私はそれを世界で最も美しく崇高なものであると信じてやみません。

けだるい朝に希望の光をくれた人達、
初めて目にしたときと同じく黄金色の朝日を浴びて
川面がキラキラ輝いていました。
それは爽やかで清々しい朝の一コマ。
私はこの光景を忘れることは無いでしょう。

こちらこそ、「今までありがとう!!」
またいつか、会える日まで。。。